#39 巫女の覚醒 [---]
posted by GEM at 2006年04月17日 01:31
生気が感じられない眼はじっと何を見るというわけでもなく、ただひたすら天蓋に向けられている。
天蓋に描かれた神秘的で心が洗われるような絵画は確かにマレリアの瞳に反射しているが、感情自体が存在しないマレリアが感想を述べることなど当然ない。仮にここに一流のリュート奏者がいて、彼の生涯で最高の演奏をしたとしても、同じようにマレリアの心を打つことはないだろう。
だがそれでも、マレリアを介護するベティの表情は聖母のように慈愛に満ち、語りかける口調はあくまでも優しい。
ほとんど骨と皮だけと言う様子のマレリアの手首に人差し指と中指を揃えて当て、脈拍をとってベティは言った。
「今日は少し心拍数が多いみたいですね。体温も少し高めかしら?」
もちろんマレリアは答えないが、ベティにとって当然そんな事は問題ではない。
「顔が赤いと言う事はないし……便の様子も問題なかったし……少し興奮気味なのかしら? もしかして何かいいことでもあったのかしら?」
あるわけがないのだ。ずっと寝たきりなのだから。興奮をするなどありえない。それでも当たり前のように声を掛け続ける。
「あ、そうでしたわ! 明日、猊下がいらっしゃいますものね! 猊下の心をつかんだただ一人の女性、うらやましいほどだわ! 猊下は奥様にゾッコンですもの!」
それが、ただベティの妄想だと言ってしまえば身も蓋もないのだが、ベティは決して、植物状態で意思の疎通が不可能というようには接しない。あくまでも人と人の接し方であり、それはベティにとっては当たり前の事だった。
――リンゴーン
大きくはないがふくよかな響きの呼び鈴が鳴った。
「あら? こんな時間にお客様でしょうかね? 奥様、少し失礼しますわ」
ベティは手近においてあったランプに火を灯してからマレリアに丁寧に一礼して部屋を出ると、ランプを手前にかざして「はいはいー」と口にしつつ玄関に向かった。普段ならセリスとセシリアが休むまでは玄関ホールにもいくらか明かりを灯しておくのだが、今夜は二人とも出掛けると聞いていたので明かりを灯していない。
「どなたでしょうか?」
「私だ。ガーリンだ」
「え?」ベティの声はそれほどでもないが表情には少なからず不信感を浮かべている。ガーリンは明日訪れると聞いているからだ。
玄関の扉に三十センチ四方の小さな布が掛かっていて、ベティはそれをハラリとめくり上げてランプをかざした。外からは中が見えないが中からは外が見えるガラス*1
が埋め込まれている。
ガラスの向こうをよく見るまでもなくそこには確かにガーリンが立っているのだが、彼の横にはもう一人、見覚えのない男の姿がある。
(……誰?)
ベティは一瞬鍵を開けるのを躊躇ったが、ガーリンが不信人物を連れて来るとも思えない。そう思い直して扉の向こうのガーリンに告げる。
「猊下、今開けます」
そう言いながら、玄関の脇の手のひらの形に窪んだ部分に手を合わせる。するとカチャリと鍵が開く音が三つ聞こえた*2
。その音を確認するとすぐさま手の平をくぼみから離して玄関を開けた。
玄関の向こうにいたガーリンともう一人の男は、ランプの明かりの加減と言うわけではなく、確かに深刻な表情をしている。
ガーリンは教皇としての正装ではなく飾りや模様が何もない質素な茶色のローブにベルトとサンダルという装いで、聖堂員のマントがなければそのまま町人としてを歩いても違和感がなさそうだ。
もう一人の男の方はというと妙に冴えない地味な服装で、狙って着ているとしか思えない。なぜならば、それはあまりにも旧い着こなしで、このまま町を歩けば逆に違和感がある程なのだ。いささか間抜けな服装とは対照的な骨ばった頬と鋭い目つきで、長めの髪が後ろに結わえられている。
おかしい、直感に頼るまでもなくそう感じる。ガーリンがここに訪ねて来るときは教皇の正装こそしていないものの聖堂員の正装だったし、もう一人の見覚えのない男については言うまでもない。だが、そうは思っても玄関を開けておいて黙っているわけにもいかない。
「お待たせいたしました、どうぞお入りください」
ベティがそう言うとガーリンは短く「うむ」と答えて玄関をくぐり、男はすぐにはガーリンに続かず、まずベティに丁寧にお辞儀してから「失礼致します」と告げて玄関をくぐった。ベティは二人に「少しお待ちください」と告げ、最低限と思われるぐらいに玄関ホールの明かりを灯して二人の元に戻った。
二人とベティは再度、互いにお辞儀する。
「猊下、大変恐縮ですがそちらのお方は……?」
「うむ、紹介しなければならんな……。こちらは……」
ガーリンがそこまで言って男を見ると、男はニコリと微笑んで続けた。
「あぁ、大丈夫です。私は諜報部門ではありませんので顔や名前を偽る必要はありません」そしてベティに向かって続けた。「日も暮れておくつろぎの所、突然お邪魔する無礼をどうかお許しください。私はザーカラ・サマーディと申します」
落ち着いて丁寧な物腰は紳士のそれなのだが、ベティの直感は何故か油断できないと感じ取っている。実際、隙がない。そう感じながらもお当たり障りなく答える。
「ザーカラ様、お初にお目にかかります。私はミルレス正教*3
助祭僧兵*4
のベティーナ・フォーサイスと申します。今夜はどのようなご用向きで?」
「我が主リーゼッタ・ガルバリウス卿よりセリス様とセシリア様の様子を見守るようにと命を受けまして参上いたしました」
「……お嬢様を? あの、何かあったのでしょうか?」
「ええ……実は……」
ザーカラが事の成り行きを話したものか迷うと、ガーリンがその様子を見て言う。
「ベティーナ、そしてザーカラ殿、詳しい話は後に。早速だがベティーナ、セリスの様子を確認したい」
「お嬢様ですか? お嬢様はお出かけになったはずなんですが……」
「それを確認したいのだ」
穏やかながらも有無を言わさぬガーリンの言葉にベティは素直に従う。
「分かりました。ザーカラ様も、ですよね?」
「はい、お願いします」
「ではお部屋へご案内いたしますが、お嫁入り前の女性のお部屋ですので、まず私が様子を見させていただきます。それでよろしいですか?」
「いえ、あの……」ザーカラは納得出来ない様子である。セリスの身に何か起こっていると仮定した場合に、セリスの部屋に何らかの危険がないとも限らないからだ。しかし、ガーリンがそれを察して言う。
「ザーカラ殿、心配は無用だ。彼女とて僧兵、仮に何かあろうとも迂闊に遅れをとることはない」
「……わかりました。そういうことでしたらベティーナ殿、お願いいたします」
ベティは小さく頷いて階段の方へ向かいながら二人に言った。
「では、お部屋は上の階ですので……どうぞ、こちらです。階段を上がりますのでお足元にお気をつけください」
ベティを先頭に三人はセリスの部屋の前まで来た。ベティは、セリスは出掛けたはずだと思っているが、玄関から出て行くところを見たわけではない。だからセリスがまだ部屋にいたとしても不思議ではない。わざわざ教皇が尋ねてくるほどであれば、むしろ部屋にいると思った方がいいのだろう。そう考えながら部屋の扉を少し大きめにノックして応えを待った。
「……お返事がありませんわね……」
コンコンッ! コンコンコンッ!
「お嬢様? お嬢様、いらっしゃいますか?」
間抜けな言い方だが(いなければ返事などするはずもない)、いるのかいないのか分からないなら他に呼びかけようもない。
ベティに限らず、ガーリンとザーカラも違和感を感じている。かなり大きなノックと声で呼びかけているので、もし部屋にいるのならば、仮に寝ているにしても起きて返事ぐらいするだろうからだ。
つまり、セリスは本当に部屋にいないか、或いは答える事が出来ないという事だ。
ザーカラが一歩進み出て扉に耳を当てる。眉間に皺を寄せているのは何かを感じ取っているのかどうなのか分からないが、耳を扉から離すとベティーを見て言った。
「ベティーナ殿」
それだけだが、要するに中を見てくれと言う事だ。ベティは頷き、ザーカラに下がってもらうと扉を開けた。
カチャッ
驚く事でもないのだが鍵はかかっていない。と言うより、セリスは普段から自室に鍵を掛けたりしない。扉をゆっくりと開け、ゆっくりと左手の明かりを部屋の方へかざす。段々と見えてくる部屋の様子を注意深く確認する。薄暗い部屋の隅々にまで視線を走らせようと注意深く見ていたが、扉を十センチほど開けた辺りでベッドの上にセリスと見られる人影に気づいた。
「お嬢様?」
「どうかね?」
ガーリンが聞くと、ベティは振り向かずに静かな声で言う。
「お休みのようです。お出かけになったと思っていたのですが……」
「寝ている? すまないが、寝ているのならば起こしてくれないか?」
「はい、分かりました。少しお待ちになってください。明かりを灯してお起こしします。お召し物も乱れているご様子ですし」
「頼む。扉は閉めないようにしてくれ」
「はい」
ベティは、どうせ起こす事になるのだが一先ずあまり物音を立てぬよう部屋の中に入った。ポケットからマッチを取り出し、壁掛けのランプに火を灯すと、部屋に柔らかい光がじわりと部屋を照らした。
明かりをつけたとはいえ所詮ランプでしかないのでそれほど明るいわけではない。ベッド脇のサイドテーブルに持ってきたランプを置いて明かりを補強した。
セリスの足が膝上辺りまで覗いていたのでスカートを簡単に直してやってからセリスの肩の辺りを軽く揺すろうとした。
(……?)
明らかにセリスの様子がおかしい。瞼が半開きになり、口もぽかんと開いているのだ。ベティの脳裏にマレリアの姿が重なる。
(そんな……嘘でしょ?)咄嗟には言葉が出なかった。気のせいであって欲しい、間違いであって欲しい、疲れきって休んでいるので少し様子がいつもと違うだけだとかそういうことであって欲しいと願い、悪い考えを掻き消すように頭を振る。
「お嬢様……? 起きてらっしゃるのですか……?」
声を掛けながらセリスを揺さぶってみるが、横になっている体は何の抵抗も示さない。完全に弛緩しきっていて、そのまま仰向けになってしまった。慌てて脈を取ってみると、いくらか弱弱しい気がするものの確かに脈打っているので、死んでいるというわけでは無さそうだ。
「お嬢様、お嬢様!?」
今度は少し強めに呼びかけ、頬をペチペチと叩いてみたが目の焦点は定まらないままである。ランプに照らされたベティの表情が見る見る険しくなっていった。考えたくない事だが、この症状はマレリアの状態よりも深刻であると考えられるのだ。咄嗟に外の二人を呼ぶ。
「……猊下! ザーカラ様! こちらにおいでください! お嬢様のご様子が変です!」
扉の外で待っていたガーリンとザーカラは、ベティのある意味予想通りとも言える反応にそれほど驚きはしなかった。互いに目線を合わせて頷くと慌てることもないが速やかにセリスの部屋に滑り込む。
「セリスは無事なのか?」
ガーリンが言うと、ベティはセリスの様子を見ながら答えた。
「脈はあります、体温の異常な低下や熱等もありません。しかし、刺激や痛みを与えてみましたが反応がなく、瞼が半開きになったままです。瞳孔はちょっとここでは確認できませんが……」
「これをお使いください」ザーカラが流れるような動作でベティに差し出したのは十五センチほどの細くて白い棒で、先端からはずいぶんと明るい光が発せられている。「スティックライトです。持ち手の魔力をいくらか消費しますのでご注意を。部屋を照らすほどの光ではないですが対光反応を見るならば十分使えます」
「はい」ベティはそれを受け取ると、セリスの半開きの瞼を少しだけ開けて、眼球に光を当てた。
「……そんな、お嬢様……」ベティの口から漏れた声は独り言のように掠れている。
「まさか……対光反応がないとでも?」
「あ、ありません」
ベティの声は少し震えていた。ただでさえマレリアが植物状態のようになってしまったというのに、今度はその娘であるセリスが……さらに深刻な症状を見せているのだ。
「確認させてください」ザーカラがそう言うと、ベティはスティックライトを返してザーカラと場所を入れ替わった。
ザーカラも同じようにセリスの様子を確認する。どうやら何らかの心得があるようで容態の確認の手際に迷いがない。
「……ベティーナ殿はどう思われますか?」
「詳しい診断をしてみないと何とも言えませんが……この症状は、昏睡状態とも植物状態とも違う気が……」
「どういうことなのだ?」様子を見守っていたガーリンが言うとザーカラはちらりとそちらに振り向いた。
「一度だけ、見たことがあります」再びセリスに向き直って続ける「魔女戦争の時の負傷兵の一人がまさに彼女と同じ症状でした。自力で呼吸をしているにも拘らず生きてはいない……。その兵は三日後に亡くなりましたが、当時の軍医が言うには、頭部に与えられる衝撃によってはこういった症状に陥るそうです」
「頭部に? セリスもそうだと言うことかね?」
ガーリンがそう言うのを気持ちが否定しているのか、ベティがすぐさま力を込めて言う。
「ですがザーカラ様! お嬢様にはそのような痕跡が」
「ええ、確かに頭部には衝撃を受けたような痕跡がありません。一体何が起こったのか……」そこまで言って、ザーカラは突然何かの気配でも感じ取ったかのように辺りを気にしはじめる。
ガーリンも同じように何かを感じ取ったらしい。
「ザーカラ殿も感じたか?」
「ええ……。これは……私がセリスを見張っていた時に感じた力と同じです」
二人は何かに感づいたようなのだが、ベティには何も分からない。
しかし、今度は三人ともはっきりと『聞いた』。
「ケホッケホッ! ケホッ! ……ゲホッ!」
まだほとんど話すことの出来ない赤子が喉と息だけで咳き込むような音だ。いや、声と言うべきかもしれない。印象は赤子のようでも間違いなく大人の咳だ。ベティが何事かとキョロキョロするが、セリスも含めてこの部屋では誰も咳き込んでなどいない。というより、ベティが見回したのは『この部屋にいないはずの誰か』を感じたからだ。
「マレリア様!?」
慌ててランプを掴んで部屋を飛び出すベティ。
「ザーカラ殿、ここを頼む! マレリアに何かあったようだ!」
「お任せを」
ザーカラが答えるより早くガーリンは部屋を飛び出していた。階下からの明かりだけでかなり薄暗いのだが、何度かこの屋敷を訪れているガーリンは迷うことなく階段を駆け下りてマレリアの部屋に向かって走った。
ガーリンの目にマレリアの部屋の前に辿り着いたベティの姿が映った。扉を開けようとしている。
「待て! ベティーナ、迂闊に開けるな!!」
しかしガーリンの言葉は少し遅かったようだ。
ガチャ!
扉が開けられ、ベティは慌しく部屋の中のマレリアに駆け寄る。いや、駆け寄ろうとした。だが、僅か二、三歩進んだだけでそのまま部屋の入り口まで後ずさってくる。その様子はガーリンから見て、明らかに部屋の中の何かに怯えているようだ。
「ベティーナ! どうした! 何がいるんだ!? マレリアは無事か!?」ガーリンが最後まで言う前にベティの恐怖に満ちた悲鳴が屋敷に響き渡る。
「きゃああああ!!」
そして、そのまま意識を失って後ろに倒れるベティを、間一髪間に合ったガーリンが後ろから抱き止め、転がり落ちそうになるランプを多少強引に取り上げる。そのままランプを部屋の中に向けた。
「!」
ガーリンはベティを抱きとめたまま、身動き一つ出来なかった。マレリアの天蓋つきのベッドのこちら側に、裾がボロボロの闇のような黒いローブの『人影』が一人立っている。ただでさえ薄暗い部屋の中にあって、その人影は頭も黒いローブに覆われているため細かい部分まではよく分からない。だが、細かい部分まで見ることが出来なくとも、ガーリンにはそれが『誰』なのかはっきりと理解できている。覚えのある姿や印象とは何か違う違和感を感じてはいるが、しかし間違いなく理解出来ている。
「し、死神……。貴様、な、何故……」
薄暗かろうがなんだろうが、僅かな明かりさえあれば人の顔と頭蓋骨の区別ぐらいつく。そう、それは間違いなく『死神』だった。黒いローブの下の頭蓋骨は何を言うともなくただ黙ってガーリンを見ている。
ガーリンが意識しているかどうかはともかく、彼のランプを持つ手は震えている。それは恐怖によるものなのだろうか。否、ランプの明かりに照らされるガーリンの表情には怒り以外を見て取る事は出来ない。
マレリアが精神の自殺を図る事になった直接の原因である死神が目の前にいるのだ。彼がただ一人愛した女性の仇が!
死神から視線を外すことなくゆっくりとベティをその場に横たえると、ベティを庇う様にさらに数歩、用心深く死神に近づく。
「マレリアをそのような状態にさせておきながら、まだ彼女に何か用があるというのか、死神。許さぬぞ……。例え刺し違えてでも貴様を」
「ケホッ、ゲホッゲホッ!」
マレリアの咳き込む声がガーリンの言葉を遮った。
「マレリア!」
マレリアのもとに駆け寄ろうにも死神が目の前にいては動く事もままならない。教皇とは思えぬ憤怒の表情で死神を睨みつける。
「貴様、マレリアに何を」
ガーリンが怒りを押し殺した声で言うのを死神が左手を上げて制する。ガーリンは怒りに我を忘れそうになりながらも死神の違和感の一つに気づいた。三年前、死神の右手にあった忌々しい大鎌がなく、変わりにシンプルな装飾の杖を持っているのだ。死神はガーリンの方に振り向いてその杖を自身の前に掲げると、ゆっくりと床に置いた。
「巫女にこの杖を。低俗なる悪霊から身を守る力がある」
「……何だと? どういうことだ」
「人よ……すまぬ。赦されるとは考えておらぬが、それでも私は私の全てで贖罪を果たさねばなるまい」
「……」
死神の予想外の言葉にガーリンは言葉を失った。あの卑劣な死神が、何に対してなのかは分からないが詫びをしようとするなど、予想出来るわけがない。
「ガーリンであったな。もう逢うこともなかろうが、これはおぬしへの詫びとして言葉を贈ろう……。我が治めし世界では恐怖こそが是となる。私の世界の是非とおぬしらの是非が異なるように、神々の是非とおぬしらの是非、賢者とおぬしらの是非が必ずしも同じとは限らぬ。抜け出ることの敵わぬ奔流に抗う道を歩む者すら摂理の内にある事を忘れるな。絶対的な敗北によって暗黒を勝ち取るのか、あるいは輪廻の保障を選ぶのか、その選択は個々異なって当然の事……。それを選ぶ時には、死は現象でしかなく命とはそのような単純なものではないと言う事を忘れるな」
死神の姿は見る見るうちに薄くなっていった。そして、最後まで言い切ると同時に姿が完全に消えてしまった。床に置いた杖だけを残して。
「……デス! 待て! どういうことだ!」
ガーリンが叫ぶ。姿が完全に消えた今、ガーリンは辺りを注意深く警戒しながら、じわりじわりとマレリアの方へ近づいていこうとしている。
「ガーリン」再び死神の声が聞こえた。
「どこにいる! デス!」背後を確認し、右、左に視線を投げ、頭上まで警戒するが、やはり死神の姿はない。姿のない死神の声だけが続けた。
「私はもう行く。主人をこれ以上待たせる事は出来ぬのでな。巫女はそろそろ覚醒する。杖の事は頼んだぞ。その杖は神器、私からその巫女への詫びの品だ。決して害なすものに非ず。必ず巫女を守り巫女を助けるだろう。さあ、案ずる事はない。巫女の側に寄り覚醒を見守ってやるがいい」
死神の声が消える。その途端、死神の気配が掻き消えた。
「ケホッ! ゲホゲホッ!」
「マレリア!」
ガーリンは警戒を忘れたわけではなかったが、今度は杖を拾い上げつつマレリアの元へ駆け寄った。マレリアは何故か息苦しそうな表情を浮かべて涙を流している。その表情から、何か良からぬ事が起こっていると考えるには十分だが、今まで完全に無表情だったマレリアからは考えられない事だった事を思うと、ガーリンの気持ちも複雑になる。
「マレリア、どうしたんだ! まさか、まさか意識が……!?」
ガーリンは杖をサイドテーブルに置くと、ゆっくりとマレリアの手を握った。すると、かなり弱弱しいがマレリアもガーリンの手を握り返してきた。これも今までならありえない反応だった。
「!」
ガーリンの瞳に熱いものがこみ上げてきている。部屋を照らす明かりにきらりと光るそれは、ガーリンにとって三年前に枯らしてしまったと思っていた涙だった。
「マレリア! マレリア、意識があるのなら眼を開けてくれ、マレリア!!」
その時、不意に、背後から声が聞こえた。
「ガーリン教皇、母さんをお願いね。私は大丈夫だからって伝えて……」
「!?」
ガーリンはマレリアの手を握ったまま背後を振り返るが誰もいなかった。しかし、確かに聞こえたのだ。セリスの声が。
「セリス!? いるのか!? マレリアが、マレリアの意識が」
今度はマレリアが唐突に叫ぶ。
「駄目よ! やめなさい! お願いだから!! それ以上やったら絶対に許さな…… ゲホッゲホゴホッ! ゲホッ!」
突然叫んだためだろう、さっきまでの咳よりも激しく咳きこんでいる。
「マレリア! 意識があるのか!? 大丈夫か!?」
ガーリンがほとんど叫びとも言えるような声でマレリアに呼びかけるが、マレリアは涙を流しながら微かに首を振っている。ガーリンに気付いていないかのように搾り出すような涙声が続ける。
「あぁ、セリス、セリス、私の命よりも大切な娘! 貴方の命で生きながらえる母の身にもなって!! 娘の命で生きていくぐらいなら地獄で責苦を受ける方がよほどマシだわ……あぁ、セリス……、なんということを……」
「マレリア!? どうしたんだ! セリスがどうかしたのか!?」
マレリアはようやく、震えるようにしながらガーリンを見た。三年間ずっと眠っていたのだから、顔を向けるだけでも苦しいのが当たり前なのだが、その辛さとは違う震えのようだ。
「ああ、ガーリン……。どうかお願い、セリスを、セリスを……う、うぅぅ……」
再会の喜びより、娘の事の方が気掛かりなのは間違いなさそうであった。その眼差しは娘の身を案じる母の眼差しそのものだ。
「あの子は、自殺した私の心を復活させる為に……自分の命を……ゲホッ! ゲホッ!」
「自分の命を……? どういうことだ?」
話を続けようとするガーリンの背後にいつの間にか立っていたベティが驚きの声を上げた。
「奥様! 奥様、お気づきになられたのですか!?」
「……あ、貴方は?」マレリアが掠れた声で言う。三年間の献身的な介護にも拘らず、意識のなかったマレリアにベティのことが分からないのは当然だった。
「私は、私は、」ベティは涙で上手く言葉が出ないようだ。「私はベティーナ・フォーサイスと申します。大聖堂の僧兵ですが、看護と介護の知識を持ち合わせておりまして、奥様のお世話をさせていただいておりました……。あぁ、奥様、これは何と言う奇跡なんでしょう! 本当によかった……」
マレリアは見知らぬ女が何故そんなに感極まっているのかよく分からないと言った様子だ。ガーリンがひとまずベティーナに声を掛ける。
「……ベティーナ、気づいたのか?」
「はい猊下、お恥ずかしい事ですが……私は何故あんなところで寝ていたのか分かりませんが、ザーカラ様が気付けしてくださいました」
ベティの言うとおり、部屋の入り口のザーカラが立っている。だが、ガーリンはそれよりも気になる事があった。
「分からない? 何を見たのか覚えていないのか?」
「……猊下、むしろ、私は何を見て、何が起こった為に部屋の入り口に倒れていたのでしょう? ご存知でしたらお教えいただきたいぐらいです」
「そうか……覚えていないのか……」
そう答えるガーリンだが、その手に死神が置いていった杖を確かに預かっているのだから幻覚ではなかったはずだ。人はあまりに大きな衝撃を受けるとその記憶を失うことがあると聞いた事があるが、これほど簡単に記憶を失うものであろうか?
「それより猊下」物思いにふけっているガーリンにベティが言う。「少し場所を代わっていただけませんか? 奥様のご容態を確認させてください」
「ああ、そうだな、頼む」少し慌てたように立ち上がり場所を譲る。そのまま、ベティがマレリアと二言三言の言葉を交わしてから容態を確認しているところを、何とも表現のしようもない気持ちで見守っていたが、ベティがマレリアの胸の辺りを確認しようとするとすぐに目線を外し、部屋の入り口に立つザーカラの方へ行った。
ザーカラは軽く一礼してガーリンに言う。
「奥方様の寝室を覗く様な無粋な真似を致しまして申し訳御座いません」
「いや、事態が事態だ、仕方あるまい。それに私の妻と言うわけではないのでそのように言われると私が困る」
「え? あ、ああ、大変失礼致しました。そうでしたね、私も存じ上げているはずなのですが、あまりにも違和感がありませんでしたので、つい……」
ガーリンは今度こそ返答に困ったような顔をした。ザーカラにはわざとらしさを感じ取られてしまうだろうが、お構いなしに話題を変える。
「……セリスの様子は?」
「それがですね、……」ザーカラが続けようとするが、会話がマレリアの耳に入ったらしく、声を上げる。
「あの子が?! あの子がどうしたの!? ゲホッ! ゲホゴホッ!」
「奥様、無理をなさらないでください、三年間意識のなかった奥様にとっては声を上げることすらとてもお体に負担がかかるのです」
ベティが嗜めるが、マレリアは今度は、そのベティの言葉に気をとられた。
「三年間……ですって? あれから、三年も経っているのですか?」
マレリアの驚きにガーリンが答える。
「……無理もない、意識がなかったのだから時間の経過を感じる事もないからな。ベティーナ、そちらに行っても大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
ガーリンはザーカラにもついてくるように促して再度マレリアのベッドの脇に立った。
「マレリア。君が精神の自殺を図ってから三年が経っているんだよ。その三年間、親身になって君の世話をしてくれたのが、このベティーナだ」
「……そうなのですか。ベティーナ様、お世話していただき有難う御座います」
「とんでも御座いません奥様! それに、私だけでなくセリスお嬢様やセシリアお嬢様もそれはそれは懸命に……」
ベティーナがセリスの名前を出すと、マレリアは再び身を乗り出そうとしながら言う。
「そうよ、セリスは、セリスはどこにいるの?! ゲホッゲホッ」
だが、三年間自力では全く動いていない体では身を乗り出す事すら出来なかった。そうしようと力むだけで途轍もなく負担がかかっているらしいことは苦しそうな表情だけではなくやせ細った腕からも納得できてしまうほどだった。
「マレリア、無理をするな。今の君の体では指先を動かすだけでも大事だろう。さっきからセリスのことを気にしているようだが、一体どうしたのだ?」
「セリスは? セリスはどこにいるの!?」
マレリアはセリスの事で取り乱し気味になっている。ベティがマレリアの脇に膝をついて「大丈夫です、大丈夫ですから」と、(根拠があるわけではなさそうだが)とにかく落ち着かせようとする。その様子をみて、ザーカラはガーリンに精霊話術で語りかけた。
(ガーリン教皇、セリスの事ですが)
(どうしたのだ)
(消えました。唐突に音もなく、こう、パッとです……)
(消えた? どこへ?)
(もちろん分かりません。それが分かればもう少し奥方様にもご安心いただけるのですが……)
(……何度も言ってすまないがマレリアは私の妻では)
「ガーリン、どうして何も言ってくれないの? セリスはどこなの?」
マレリアの懇願するような眼差しに気圧されるような気持ちになったガーリンは、何と答えようか迷った。何となくザーカラの方を見てしまうが、ザーカラも(こっちを見られても困る)とでも言いたげである。
そこへ、別の男がガーリンに精霊話術で語りかけてきた。
(ガーリン教皇殿、魔法陣に動きがありました)
(これはカトー老師、どうなされましたか?)
(魔法陣が突然停止しました。どうやら魔法陣を起動していたのはオウカのようです)
(やはりあの女か! オウカは今そこにいるのですか?)
(いえ、今はいません。私とちらりと眼が合ったのですがすぐに消えました。それと、実は魔法陣が停止した瞬間ですが、オウカの他にあと二人いたのです。一人は闇のように黒いローブを纏った大きな人影でした。ローブで顔を隠していたので誰なのかはわかりません)
(黒いローブ? まさか……)
(お心当たりが?)
(うむ、確かに心当たりはある。が、その前にもう一人と言うのは?)
(マイソシア救世の巫女であられるマレリア殿のご息女、セリス様です)
(なんと! セリスがそこにいたのですか!? 生きているのですか?!)
(は? え、ええ、もちろん生きていたようですが? 自力で立ち、オウカや黒いローブの何者かと二言三言言葉を交わしていたようですので……)
(カトー殿、情報感謝いたします!)
(え?)ただセリスが生きていると言っただけで何故そこまできっぱりと感謝されるのかよく分からないカトーだが、そこは当たり障りなく答えようとする(あぁ、いやま、お役に立てましたようで……。と言ってもまだ触りすらお話してないのですけど……)
(いまこちらでセリスの行方を気に掛けていたところなのです)
(ああ、なるほど、そういうことでしたか)
(一応お尋ねいたしますが、セリスは、いや彼女達はそこで一体何をしていたと思われますか?)
(残念ですが今の段階ではお答えのしようがありません。これから調べるところですので……)
(なるほど。私とした事が気が急いてしまったようです。後ほど詳しいお話をお聞かせいただきたいのですが、一先ずこれにて)
(了解です。私も引き続き調査を行います)
(感謝いたします。それでは)
ガーリンはカトーとの話を終えるとマレリアに歩み寄って言った。
「マレリア、それからベティーナ、ザーカラ殿、聞いてくれ。今、スオミ魔導教会の老師職であられるカトー様からご連絡を頂き、セリスの無事を確認出来たようだ。大魔法陣の中にいたらしい。しっかりと己の足で立ち、その場にいた別の者と言葉も交わしていたそうだ」
ガーリンの言葉に対して反応はそれぞれ異なっていた。ザーカラは一先ず胸を撫で下ろすような仕草をしたが、ベティは困惑気味である。ザーカラはそれを察して、実はつい先ほどセリスが部屋から忽然と消えたのだと言う事を告げた。
マレリアは……。
ガーリンは当然、マレリアがこれで少しは落ち着いてくれるものだと期待していた。ところが、マレリアは言葉もなくガーリンを見つめるばかりであった。よほどほっとして言葉もないのかと感じたガーリンだったが……。
「よかったですね奥様、お嬢様もご無事な……よう……で……」と、ベティが声を掛けるが、その声は見る見る変わっていくマレリアの表情に呼応して小さくなっていった。
マレリアは安心するどころか、明らかにさらに表情を険しくしていくのだ。
「奥様?」
「マレリア、どうしたんだ? セリスのことなら今言ったとおり無事だが?」
「ああ……セリス……。どうかお願い、無事でいて……」
マレリアの口から出たのは安堵の言葉ではなく、身を引き裂かんばかりに娘を気遣うものだった。
「マレリア、どういうことだ? セリスの身に何が起こっているというのだ?」
ガーリンが怪訝そうにマレリアに聞くと、マレリアは辛そうに瞼を閉じた。再び目尻から涙が零れ落ちるとベティは優しくそれを拭いた。
「奥様……お嬢様の身に何かがあるとお感じになっておいでなのですか? どうかお話ください。私も、そしてきっとガーリン教皇やザーカラ様もお力になってくださると思います」
マレリアは再び瞼を開け、ベティ、ガーリン、そしてザーカラを見た。
「……そちらのお方はザーカラ様とおっしゃるのですか?」
「おお、これは大変なご無礼を。申し遅れました、私はリーゼッタ・ガルバリウス卿にお仕えしておりますザーカラ・サマーディと申します。主人の命を受け、セリス様のご様子を確認する為に参上いたしました次第です」
「……あの子の?」
「はい、ですが私と致しましては今ガーリン教皇がおっしゃいましたようにセリス様がご無事であるとお聞きして一先ず安心したところなのですが……マレリア様はまだ何かを気に掛けていらっしゃるご様子かとお見受けいたします。マレリア様はマイソシアの全臣民の命をお救いくださ


